第2章 動き出す“センター”
1.香港の闇
夜の香港。尖沙咀(チムサーチョイ)のネオン街は、世界中から集まる旅行者の熱気に包まれている。ビクトリア・ハーバーに面した海沿いからは、高層ビル群の絶景が見渡せる。観光客たちは写真を撮り、英語や広東語、日本語、韓国語、あらゆる言語が飛び交う。それらが入り混じるこの街こそ、東洋の真珠と呼ばれる国際都市の姿だ。
一方で、ネオンの煌めきから一歩裏へ踏み込めば、不法な物や情報、サービスが取引されるアンダーグラウンドが広がっている。高級ブランド店が立ち並ぶ大通りの裏手には、狭い路地が迷路のように張り巡らされ、雑居ビルが林立していた。煩悩と欲望、それに付け込む犯罪組織や諜報組織が入り混じる歪んだ世界──それが香港のもう一つの顔である。
その裏社会の一端を担うように、中国諜報部の密使たちが頻繁に行き来する地域があった。雑居ビルの一室には、コンピュータや通信機材、サーバーラックが並ぶ“非合法”なオフィススペースが存在する。その部屋こそが、これから世界を混乱に陥れるハッカーチームの拠点となる場所だ。
2.中国諜報部「張飛」の影
中国共産党の最高指導者・周平金の命を受け、人民解放軍の実権を握るタカ派将軍・関羽瑠が作り上げた軍事計画。そのサイバー面を担うのが、**“張飛”**と呼ばれる中国諜報部の秘密部門である。表向きは国営通信社や民間企業のIT部門などに偽装し、実態を隠蔽しているが、その実力は侮れない。
張飛部門はサイバー攻撃や諜報活動を専門としており、特にハッカー集団の運用に長けている。表向きは政府機関と距離を置き、「個人的に活動しているハッカーに報酬を与えているだけ」という建前を取り繕うことで、いざ問題が起きても「一部の暴走ハッカーによる犯罪行為」として片づけることが可能になる。
その張飛部門を指揮するのは、四十代半ばの男、**劉志鵬(りゅう・しほう)**という人物だ。だが、彼の通称は「張飛」である。これはあくまでコードネームであり、部門名と同じ呼称が彼個人の通称ともなっていた。中国史における勇猛果敢な豪傑・張飛をイメージさせるように、自らが名乗ったとも噂されるが、その実態は狡猾で冷徹なインテリジェンス・オフィサーである。
強面の外見とは裏腹に、彼は高い学歴と知性を持ち合わせ、諜報のみならず軍事学やコンピュータセキュリティにも通じている。周平金や関羽瑠からの軍事的な要求を受けて、彼が最初に動かしたのが、香港を拠点とするハッカーチーム**“センター”**の起動だった。
3.“センター”という名の5人
“センター”は表向きには無名のハッカーたち。しかし、その活動実績は決して侮れない。彼らは中国大陸出身者だけでなく、海外からの流入者や香港生まれの若者も含まれる多国籍な集団であり、純粋な民族主義から動いているわけではない。目的はあくまで報酬と、巨大企業や政府機関に対する“挑戦”だ。
メンバーは5名。いずれもハンドルネームで呼ばれており、彼らの素性は謎に包まれている。
- リーダー格:コードネーム「ゼロ(Zero)」
- 生年月日や本名すら一切不明。推定で三十代前半とも言われるが、その実力は折り紙つき。サイバーセキュリティの大会で優勝経験があるとも噂され、ハッキングの手法は多岐にわたる。
- 香港の裏社会で人脈を築き、“センター”を取りまとめる中心人物。
- 暗号技術担当:コードネーム「ラビリンス(Labyrinth)」
- 複雑な暗号アルゴリズムの開発や解析を得意とする。ダークウェブ上でも“解読不能”と評された暗号通信を短時間で破ったという逸話を持つ。
- どちらかというと内向的で、仕事以外で仲間と会話することは少ない。
- ソーシャルエンジニアリング担当:コードネーム「ムック(Mook)」
- 人間関係を操るのが得意で、標的のセキュリティ意識の隙を突くソーシャルエンジニアリングの達人。フィッシングメールやなりすまし電話など、狡猾な手口で情報を引き出す。
- 一見柔らかい物腰だが、必要とあらば裏社会の暴力装置とも通じる大胆さを持つ。
- ネットワーク侵入担当:コードネーム「ブラスト(Blast)」
- ネットワーク機器の脆弱性を突いた攻撃手法に卓越。高額な防御システムを擁する企業や政府機関も容赦なく突破してきたという噂がある。
- 攻撃的な性格で、ターゲットを嘲笑うように大胆な手口を好む。
- マルウェア・ウイルス担当:コードネーム「ホイール(Wheel)」
- 独自開発のマルウェアやウイルスを用いて、対象コンピュータを遠隔操作したりデータを破壊したりする。ウイルス作成の腕はピカイチで、DDoS攻撃用のBotネット構築にも長けている。
- 悪ノリが過ぎる一面もあり、狙った標的に痛烈なダメージを与えることをゲーム感覚で楽しむ節がある。
彼ら5人が集まるとき、自分たちのチームを「センター」と呼ぶ。由来は「世界の真ん中に立ち、混乱を操る」という自負からきているとの説があるが、真偽は定かではない。
4.張飛の密命
ある夜、香港の雑居ビルの一室。薄暗い室内には、複数のモニターやサーバーが並び、冷却ファンの低い唸りが絶え間なく響いていた。そんな中、リーダーのゼロがモニターの前で腕を組み、仲間たちを見回す。
「……張飛から連絡が来た。大きな仕事だぞ」
“張飛”という名を聞くと、他のメンバーの視線が一瞬で集中する。張飛=中国諜報部が彼らに仕事を振る際は、報酬も大きいがリスクも高い。過去に“センター”が派手なハッキングを行なっても不問に付されたのは、すべて張飛の後ろ盾があったからだ。
ゼロは続ける。
「今回のターゲットは2つ。アメリカと日本の政府機関のサーバーだ。だが、それだけじゃない。どうやら香港や中国本土以外にある“とある組織”の動向を探れとも言われている」
「とある組織? CIAか? それともイギリスのMI6とか?」
ブラストが興味深げに尋ねると、ゼロは首を横に振る。
「いや、今回の依頼内容はややこしい。報酬は良いが、俺たちにとっても未知の相手だ。“日本秘密捜査局、JSIA”――聞いたことあるか?」
一同は無言になる。日本の警察庁や自衛隊、公安調査庁ならまだしも、“JSIA”などという名を耳にしたのは初めてだった。日本にも情報機関はいくつか存在するが、それが公式に明かされているかは疑わしい。いずれにせよ“JSIA”という呼び名は一般的には知られておらず、ネット上にもほとんど情報がない。
「聞いたことねえな。そんな組織、本当に実在するのか?」
ホイールが訝しみながらキーボードを叩き、何らかの検索を試みる。
「多分、日本のブラックオプス的な諜報機関だろう。表沙汰にならない活動をしてる。張飛は『彼らが中国の動きを探っている可能性があるから警戒しろ』と言っていた。つまり、俺たちはアメリカ・日本の政府機関を攻撃しつつ、JSIAなる組織の動向を監視・分析する。もし奴らが動き出す兆候があれば、即座に通報するというわけだ」
ゼロの言葉に、メンバーたちもさすがにただならぬ気配を感じる。アメリカ政府のサーバーを狙うことはこれまでにも何度かあったが、日本の政府機関に対して本格的なDDoS攻撃や侵入を行うのはリスクが高い。日本はサイバー防衛に関して欧米ほど派手な報道はないものの、独自の防御システムを構築しているといわれているのだ。
「裏を返せば、それだけ大きな作戦が裏で進んでるってことか。報酬がデカいのも当然だな」
ムックが言うと、ラビリンスは黙って端末の画面を見つめ、怪しげな数式を走らせている。どうやら既に張飛から受け取った暗号鍵の確認作業を行っているようだ。
「よし、それぞれ準備にかかるぞ。期限は近い。まずアメリカ側からの警戒を逸らすために、日本の省庁を先に攻撃する。二正面攻撃で相手のフォーカスを散らして一気に攪乱するんだ」
ゼロはチームメンバーに具体的なタスクを指示し始める。
5.“私的ハッカー”としての偽装
今回のミッションで重要なのは、「中国政府は関与していない」という偽装を徹底することだ。周平金も関羽瑠も、あくまでも「香港のハッカーが勝手にやっている」という形を取り繕う算段なのである。
“センター”のメンバーたちに支払われる報酬は、仮想通貨やタックスヘイブンを経由した複数の架空法人口座を通じて振り込まれ、その資金源が中国当局にたどり着かないよう巧妙に細工されていた。
「俺たちも全力で足取りを消す必要があるな」
ブラストはそう言うと、香港のネット回線だけではなく、複数国のVPNをバウンドするルートを用意する。さらに、海外の踏み台サーバーを複数用意し、数秒ごとに接続ルートを変更するトリッキーな方法を試みる。ホイールも、感染させたBotネットを世界中に散らばらせ、攻撃元IPが一か所に集約しないよう工作を行った。
こうした周到な準備が行われるのは、今回のターゲットが一筋縄ではいかないからに他ならない。アメリカの政府機関は、CIAやNSAなど強力な情報機関が控えており、日米間での情報共有が行われれば即座に反撃される可能性がある。さらに日本は独自の捜査能力を持ち、秘密裏に動く組織(=JSIA)まで存在するとなれば、迂闊なミスは許されない。
6.アメリカと日本への下準備
攻撃目標は大きく分けて二つ。まずはアメリカの政府関係サーバー。ホワイトハウスや国防総省を直接狙うのはリスクが高すぎるため、関連の研究機関や外郭団体、あるいは州政府や各省庁のデータベースなどを狙っていく。これらを同時多発的に攻撃して混乱を生み、各セキュリティチームの応答を逼迫させる作戦だ。
もうひとつは日本の政府関係サーバー。総務省や外務省、防衛省などが主要な標的になる。もちろん、これらの省庁は国の根幹であるがゆえに堅牢なシステムを備えている。しかし、完全に侵入不可能というわけではない。官庁同士の連携システムや地方自治体とのデータ共有システムなど、攻撃の糸口は意外に多い。
「まずは大量のDDoS(分散型サービス妨害)攻撃を仕掛けて、相手のサーバーを混乱に陥れる。防御側が対応に追われている間に、奥深くへ侵入するルートを確立するんだ。今回は時間差をつけて何度も波状攻撃を行う。これが成功すれば、相手の注意を外部へ向けさせて、その隙に別の目標を突くこともできる」
ゼロはチームに手順を説明しながら、香港からアクセスするための環境設定を淡々とこなしていく。
ラビリンスは暗号化した通信を使い、早速アメリカ側のサーバーを探り始める。ムックは省庁関連の職員や取引企業にフィッシングメールを送り、マルウェアを仕込む機会を狙う。ブラストがネットワークスキャンを続ける間、ホイールはすでに1,000台を超えるBotを仕込み終えていた。
「よし……ほぼ準備は整ったな。あとはタイミングだ」
ゼロは粛々と作業を進めながら言い放つ。
7.“JSIA”への興味
“センター”のメンバーが今回のミッションでもう一つ気にかけているのが、前例のない指示──**「JSIAの監視」**である。日本の情報機関とも呼ぶべき存在を監視して動向を探れ、と張飛から言われたとき、ゼロは一瞬耳を疑った。
「日本にそんな組織があるなんて知らなかったが……よほど厄介な相手なんだろう?」
ブラストが尋ねたとき、ゼロはすでに張飛からある程度の情報をもらっていた。
「どうやら日本の自衛隊特殊部隊や公安、警察などのエリートを集めた秘密部隊らしい。公式には存在しない組織として扱われているが、その任務範囲は広範囲にわたるようだ。対テロ、対スパイ、さらには国際的な秘密工作までやるとか。俺たち『センター』が監視するように言われたのは、彼らが中国にとって不利な情報を掴まないよう、あるいは掴んでも妨害できるようにするためだろうな」
ムックが興味深げに言葉を挟む。
「そんな連中が本当に存在するなら、こっちの動きに感づく可能性は高い。日本にハッキングを仕掛ける以上、彼らが調査に乗り出してくるかもしれない。そうなれば面倒だね」
「つまり、俺たちがJSIAの動きをチェックし、もし奴らが動いたら、その情報を張飛に渡すんだ。中国側にとっては、めちゃくちゃ有用な情報になる。俺たちにとっても、成功すれば莫大な報酬が待っている」
ゼロはそう言いながら、既に情報収集のための下準備に取りかかっていた。
しかし、いかに一流ハッカー集団とはいえ、存在自体が秘匿されているJSIAのシステムに直接侵入するのは容易ではない。情報がほとんど見つからないため、まずは関連ありそうな日本の自衛隊や政府機関のネットワークを片っ端から探り、そこからJSIAと繋がる端末やアドレスを割り出す作業を進めねばならない。
「手間はかかるが、張飛は『奴らの拠点は都内にあるはずだ』と言っていた。そこを特定できれば、物理的な監視や盗聴も視野に入るかもしれないな」
ゼロが呟くと、メンバーたちは興奮半分、警戒半分の表情を見せる。
8.張飛の監督
翌日、香港のとある高級ホテルのスイートルーム。そこにスーツ姿で現れたのは、張飛こと劉志鵬。優雅な身のこなしで部屋に入り、一切表情を崩さないまま、既に待機していたゼロと会話を始めた。
「ご苦労。作業は進んでいるか?」
張飛の声は低く威圧感がある。しかしゼロは馴れた様子で口を開く。
「ええ、アメリカと日本の政府系サーバーへの下準備は滞りなく。具体的な攻撃開始は48時間以内が目処です。そちらのご要望通り、JSIAのネットワークにも手を伸ばし始めましたが、こちらは未知の要素が多いですね」
すると張飛は、そっと一枚のファイルを手渡す。そこには、これまでに得たJSIAのごく断片的な情報が載っていた。曖昧なコードネームや、メンバーのわずかな写真、さらには東京近郊にある施設への出入り記録らしきものが断片的にまとめられている。
「大した情報ではないが、我々が掴んでいるのはこれだけだ。奴らもおそらく、今回の中国の動きを警戒しているはずだ。無論、政府や自衛隊の情報だけではなく、民間企業や通信インフラに対しても警戒心を高めてくるだろう。お前たちには、なるべく彼らの目を逸らすように仕向けてもらいたい」
ゼロはパラパラとファイルをめくりながら呟く。
「JSIA……正体不明。こちらのハッキング手法を手繰るどころか、もしかしたら逆探知してくるかもしれない。だがまあ、俺たち『センター』はこの道のプロだ。うまくやりますよ」
張飛は満足そうに頷くと、こう言い放った。
「報酬は弾む。結果さえ出してくれればいい。周総書記と関将軍の指示は絶対だ。万一失敗して、お前たちの存在が中国政府に繋がるような証拠を残せば……私もお前たちを守りきれん」
遠回しな脅迫とも取れる言葉だが、ゼロは動じない。もともと秘密裏に稼ぐという点で利害が一致している両者。すでに共犯関係とも言える。むしろ、こうした緊張感が「センター」のメンバーを高揚させるのかもしれない。
9.始まるサイバー攻撃の前哨戦
張飛が香港を離れ、大陸へ戻った翌晩から、アメリカと日本の一部のサーバーに対して偵察行為が活発化した。これは“センター”のメンバーが本格攻撃の前に行う下調べである。相手方に見つからないよう慎重に行うスキャンや、弱点となりそうなオープンポートの探索。時折、小規模なトラフィックの集中を引き起こし、防御側がどう対応するかを観察する。
「アメリカの方はやはり反応が早いな。即座にファイアウォールの設定を切り替え、自動でIPブロックをかけてきやがる。日本の方は……ああ、防衛省関連のアドレス帯域が局所的に強固になっている。こいつはちょっと骨が折れるかもしれない」
ブラストが呟きながら画面を覗き込む。隣ではホイールがニヤリと笑い、指を動かしてBotネットの調整をしていた。
「でも数は力だ。秒間何百万リクエストを送り込めば、どんな高性能サーバーも落ちる。問題は相手がどこまで耐久力を持っているかってことだ」
ホイールの言葉は不敵だ。ゼロは、そんなホイールの軽口を横目に、落ち着いた声で返す。
「分散度合いを計算しろ。アメリカの州政府サイトやら大学の研究機関を巻き込んで同時にやれば、向こうのレスポンスは確実に鈍る。日本側も防衛省だけでなく、総務省や内閣府を狙ってあらゆる行政サービスを麻痺させてやる。その混乱の中で我々が本命のデータを抜き取る。……いや、その前にJSIAに気付かれるかもしれないが、時間さえ稼げればいい」
この段階ではまだ試験的な攻撃なので大規模報道には至っていないが、一部のシステム管理者たちはすでに異変を感じ取っていた。後に、“センター”の名は“某国ハッカー集団”としてセキュリティ業界の間で囁かれるようになるが、それはもう少し先の話である。
10.JSIAへの視線
“センター”が着々と攻撃準備を整える裏で、彼らは並行して“JSIA”の存在を追跡し始めていた。だが、その情報は非常に乏しい。
検索をかけても出てくるのは、日本国内の都市伝説めいた書き込みや噂話程度。例えば「自衛隊の中に闇の部隊がいるらしい」「公安にも把握されていない組織があると聞いた」といった、信ぴょう性の低いものばかりだ。公式サイトなど皆無に等しいし、SNSでもそれらしいアカウントは見当たらない。いかに謎の多い組織かが窺える。
しかし、ラビリンスがある日、ダークウェブの一角で興味深いファイルを発見した。暗号化され、パスワードが二重三重に設定されている怪しい文書で、タイトルは「JSIA_Observation_Report」となっている。
「このファイル、誰がアップロードしたのかは不明だけど、強固な暗号が施されている。まるで最初から解読を拒んでいるみたいだ」
ラビリンスは画面を見つめ、軽く指を鳴らす。彼にとって高度な暗号は腕試しのようなものだ。
数時間後、ラビリンスはそのファイルの一部をこじ開けることに成功した。すると、そこには断片的ながら“JSIA”の活動を示唆するデータが含まれていた。複数の海外渡航記録、各国の諜報機関との接触ログらしきもの。そして一部には「香港にエージェントを派遣した」「CIAと情報交換している可能性」という記述もあった。
「これは……興味深いな。もしかすると、すでにJSIAも香港で活動しているのかもしれない」
ラビリンスが口にした言葉に、“センター”のメンバーは騒然となる。
「俺たちを探るために来てるって線はあるか?」
ムックが尋ねると、ゼロは少し考えてから答える。
「あり得るな。俺たちが標的になっているのか、あるいはもっと大きな作戦のために香港に潜入しているのか……。まあ、いずれにせよ、JSIAが香港にいる可能性があるなら注意を払わないとな。変な尾行や妨害を受けると面倒だ」
この一件は、やがて“センター”がJSIAに対して積極的に情報収集を行うきっかけとなる。彼らは、わずかな手がかりをもとにJSIAの通信を盗み聞きしようと試みる計画を立て始めた。
11.中国への報告
同じころ、張飛は再び中国本土へ戻り、関羽瑠に今回のサイバー作戦の進捗を報告していた。人民解放軍の極秘作戦ルームには、大陸各地から集まった将官たちがずらりと席に着いている。巨大なスクリーンには、南シナ海を中心とした地図が映し出されていたが、その横にはアメリカや日本の国旗が小さく並んでいた。
「将軍、ハッカーたちの準備はほぼ整いました。まもなくアメリカと日本の政府機関に対する攻撃が開始されます。規模としては限定的ですが、目標は攪乱とデータの取得です。防御側が混乱に陥れば、我々の軍事行動を察知されるリスクが減るでしょう」
張飛が淡々と報告すると、関羽瑠は満足げに頷く。
「よろしい。南シナ海と香港、そして台湾へ向けた準備を我々は着々と進めている。情報面のサポートは死活的に重要だ。お前たち諜報部の働きが、この作戦の成否を左右すると言ってもいい。……ところで、周総書記はどう動いている?」
「総書記は引き続き、各方面への資金投入を続けております。軍事費の増大や国債の乱発で国内の経済は危うい状況ですが、それ以上に国民の不満を外に向けるプロパガンダに熱を入れているようです。香港や台湾への強硬姿勢が報じられれば、少なくとも愛国心を煽ることができます」
関は静かな笑みを浮かべる。
「そうだな。まもなく我々は南シナ海の完全掌握へ動き出す。香港とマカオは既に統制下にあるようなものだが、反対派への締めつけを強化する必要がある。そして台湾……最後の難関だ。そこを併合すれば、総書記の失墜した威信は一気に回復する。私もそれを望んでいる。なにせ、おとなしく“私の操り人形”になっていただかなければ困るからな」
張飛は軽く頭を下げる。関羽瑠が何を望んでいるのか、彼には痛いほどわかっていた。それは、中国国内における軍事独裁体制の確立である。周平金を表看板として利用し、自らは実質的な最高権力者として君臨するという野望だ。そんな関の思惑に張飛もまた従い、今回の作戦を成功させることで評価を高めようとしているのだ。
12.揺れ動く香港
香港市内では、近年の中国政府による統制強化に対する反発も根強い。民主化を求める学生や市民が抗議デモを起こしたのは記憶に新しいが、今もなお地下組織や反体制派が暗躍している。彼らは香港の自由を奪われまいとして奮闘するが、その一部には過激派も含まれ、警察や親中派と衝突を繰り返していた。
こうした不安定な情勢は、中国当局にとって諜報活動をしやすい面もある。混乱に乗じて、秘密裏に人の出入りを監視し、危険分子を炙り出す。さらに香港のITインフラを使い、大陸外で“私的ハッカー”を装うこともできる。まさに香港は、中国にとって諸刃の剣でありながら、今は利用価値の高い場所なのだ。
“センター”のメンバーは、尖沙咀や旺角(モンコック)の雑踏に溶け込むように生きている。彼らは決して一箇所に固まって生活しない。高級ホテルに泊まる者がいれば、安宿を転々とする者もいる。時にはホステルの一室でノートPCを使い、時にはカフェのフリーWi-Fiを介して作業する。そんな彼らを完全に捕捉するのは難しい。
しかし、“センター”の行為がもし表沙汰になり、香港の治安当局や他国の情報機関に知られたらどうなるか──。そのリスクを考えると、ゼロたちも決して大胆に行動しているわけではない。あくまでシステマチックに、徹底的に痕跡を消すように動いているのだ。
13.予兆:JSIAの影
一方、香港のどこかでは、確かにJSIAのエージェントが動き始めていた。これは次章以降で語られることになるが、日本の秘密捜査局「JSIA」は既に中国の不穏な動きを察知し、香港に独自のパイプを築いていた。日本の表向きの外交ルートとは別に、極秘で派遣したエージェントを香港に送り込み、情報を収集している。
そのエージェントの一人が、大谷聡平(通称:ソー)。陸上自衛隊「特別作戦群」出身のエリートで、JSIAでは新進気鋭のメンバーとして期待されている男だ。彼の足取りはまだ“センター”に感づかれてはいないが、やがて両者の道が交わる日が来るだろう。
もっとも、現時点で“センター”はそのことを知らない。ラビリンスが拾ったダークウェブのファイルに「香港でのJSIA活動の噂」といった文字列があったとはいえ、確定的な証拠ではない。今はアメリカと日本のサーバー攻撃、そしてJSIAのネットワーク監視を同時進行で進めるだけで手一杯なのである。
14.火蓋が切られるとき
そして、ついに“センター”が仕掛けるサイバー攻撃の開始日がやってくる。深夜、香港の雑居ビルにある拠点では、5名のハッカーがモニターを見つめ、緊張感に包まれていた。
「定刻になった。……よし、やるぞ。攻撃ツールを起動」
ゼロが静かに号令をかける。
ホイールが用意したBotネットが一斉に指令を受信し、何万ものアクセス要求がアメリカ各地のサーバーに飛び込んでいく。ほぼ同時に、ブラストが用意したDDoS攻撃が日本の省庁サイトに集中砲火を浴びせ始める。合間には、ムックが仕掛けておいたフィッシングメールのリンクから、職員の端末がマルウェアに感染する。マルウェアはラビリンスの用意した暗号トンネルを通じて情報を盗み出し始める。
「……いい感じだ。アメリカ側は少なくとも焦っているな。ログを見ろ、ファイアウォール設定がめちゃくちゃになってる」
ブラストが笑う。その隣で、ホイールがキーを叩きながら指示を出す。
「さらに増やすぞ。日本側もまとめてパンクさせろ。……やっぱり早いな、外務省のサイトは一瞬で防御モードに切り替わった。けど、続けて送り込めばいつか落ちる!」
瞬く間に世界各地の踏み台サーバーを経由して何十万件もの通信が飛び交い、アメリカと日本の一部のウェブサイトが重くなり始める。広報機能や窓口機能が一時的にダウンし、利用者がアクセス不能になった。夜間の攻撃であったため、大半の職員が寝静まっている時間帯を狙ったのだ。
しかし、防御側も黙ってはいない。アメリカのセキュリティ専門チームが緊急招集され、日本の各省庁も予備システムを立ち上げ始めた。攻撃を検知した政府高官たちは、徹夜で対策会議を開くことになる。
「面倒なことになる前に、抜けるデータは抜いておくぞ。JSIA関連の痕跡も探れ。官庁のメールサーバーの中にJSIAに関する記述があればいいんだが……」
ゼロはモニターを睨みつつ素早く指示を飛ばす。すべてが混乱に包まれる前に、可能な限りの情報を吸い上げて張飛に渡すのが彼らの役目なのだ。
こうして、“センター”による大規模サイバー攻撃が本格的に始まった。アメリカと日本の政府関係者は、前代未聞の同時多発攻撃に翻弄され、その背後に潜む黒幕の存在を感じ取りながらも正体をつかめずにいた。そしてこの動きこそが、後にさらに激しくなる国際対立──日中戦争の引き金の一つとなっていくのである。
15.次なる不穏な展開へ
香港の闇に紛れて活動する“センター”の存在は、やがて世界の諜報機関、特にCIAとJSIAの耳にも届くことになる。だが、彼らがどのような組織に雇われ、何を狙っているのかは簡単には掴めない。
その一方で、中国本土では関羽瑠の指揮下で軍事演習が急ピッチに進められていた。南シナ海に展開する空母や駆逐艦、潜水艦が増強され、航空部隊も台湾周辺の空域を威嚇飛行する頻度を高めている。そこに香港やマカオ、そして尖閣諸島、台湾への侵攻計画が重なり合う。サイバー空間と現実の軍事空間で同時進行するこの戦略は、いずれ大きな火種となるだろう。
日本政府内では、まだ“JSIA”の存在を公式に活用する気配は見えない。なぜなら政治的リスクが高すぎるからだ。しかし、防衛省や外務省の一部幹部たちは密かにJSIAへ通報し、動き出す準備をしていた。国家の危機管理を担う“最後の砦”として、JSIAが舞台裏で暗躍を始めるまで、もうそう長くはかからない。
情報戦が静かに、しかし確実に熱を帯びていく。香港の雑居ビルでは今宵も“センター”のハッカーたちが冷酷な笑みを浮かべ、キーボードを叩き続ける。その先に、世界が想像を絶する混乱へ突き進むことを、まだ多くの人々は知る由もなかった。
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