ロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)は1666年にロンドンで起こった大火を記念して1671年に建設が開始され、1677年に完成した記念塔です。ロンドン地下鉄モニュメント駅出口すぐに巨大な姿を見ることができます。
このロンドン大火によって中世都市ロンドンは焼失したわけですが、その後ロンドンが都市形成するうえで、歴史上重要な転換点と言われています。イギリスでは教科書でも必ず記載される内容ですし、語学学校でもロンドン大火にした題材を講義の内容としています。それはロンドンにとってそれほど重要な出来事だとゆうことがおわかりでしょう。
そう、このロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)の前でロンドンの歴史を認識し、ロンドンを楽しもうではないですか。
こちらが火災発生元のプディングレーンからの撮影です。
場所・アクセス
住所:Fish St Hill, London EC3R 8AH イギリス
アクセス:地下鉄 モニュメント駅すぐ
URL:https://www.themonument.org.uk/
地下鉄モニュメント駅出口すぐにこの様にそびえる記念塔があります。周辺にはカフェやパブが沢山あり、ビール片手に談話している人が沢山いました。
入場料
大人 £5.00
子供(5~15歳) £2.50
5歳以下 無料
大 火
大火は1666年9月2日午前1時~2時にプディングレーンに所在するパン屋から発生しました。パン屋のオーブンは閉店後完全に消火されておらず、寝静まったころに熱によって膨張した空気が火花を発生させたことで火災が発生したと伝えられております。
ロンドンの大火は、1666年9月2日(日曜日)から9月6日(木曜日)まで続き、火災はシティと呼ばれるローマ帝国時代の城壁内(下記画像参照)にある中世のロンドン市をほとんどを焼きつくしたと伝えられております。それはセントポール大聖堂、ロンドンシティ行政局の建物以外に、家屋:13,200棟、教会:87棟で、市民80,000人の内70,000人が被害にあいました。しかし、ウェストミンスターの貴族地区、チャールズ2世のホワイトホール宮殿、及び郊外のスラム街には被害はありませんでした。
(黒線がローマ帝国時代の城壁)
これほどまでの大火災になったのは、当時のロンドンは、ほとんどの建物は木でできていたため、折からの東風と乾燥した夏と相まって、炎は市全体に広がったことによる延焼です。延焼の原因は強い東風ですが、テムズ川沿岸では荷役の為に沢山の倉庫が点在していました。その倉庫には火薬にタール、油や石炭類などありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されており、この倉庫の延焼が火災を大きくした原因であります。
当時のロンドンでは火災は珍しくなく、市長も火災の第一報を受けた時も何も指示ぜず「またか」と漏らしたそうです。火災は国王”チャールズ2世”にも詳細が伝わり、延焼を食い止めるために火災の東側の家屋を取り壊す命令が国王”チャールズ2世”から市長に通達されましたが、市長は「逃げ回る市民に何を言っても聞いてくれない」諦めたとか。。。!確かに街中は火災道具を馬車や荷車に積み込んだ市民が、道路を占拠し火災方向に向かうのもままならない状況だったとか。そんな理由もあり、風が弱まり落ち着いた頃にようやく、周辺家屋の取り壊しが始まり、同時に火災も鎮火へと向かい始めました。幸いなことに、大火の間に命を失った人は限られていました。 この大火による死者は6人と伝えられておりますが、現在の学者たちはその人数には懐疑的な意見が多いです。
復 興
当時にロンドンは下水処理は行われず、下水は全てどぶからテムズ川へ垂れ流しでした。衛生状態が非常に悪く、火災の前年より流行していたペストによりロンドン市民は疎開も考えていた状況でした。1665年のペストによる死者は65,000人と記録されています。そんな状況でしたが、この大火によりペスト菌が消滅し大幅に治まったそうです。「雨降って地固まる」の如く、これもロンドン大火の象徴のひとつでもあります。
もし、ロンドン大火が無く、ペストが猛威を振るっていたら、シティだけではなく周辺にも大変な被害を与えていたと考えられていますので、その場合、人々はロンドンを捨て新しい地で生活していたのでは無いでしょうか。と言うことはイギリスの首都はロンドンではなく他の都市になっていた可能性もあります。そう考えるとこのロンドン大火も必要だったという考えもあります。おもしろいですね!
鎮火から1週間も経たない9月10日、焼失したセント・ポール大聖堂を現在の姿に再建した人物として有名な建築家”クリストファー・レン”は国王”チャールズ2世”に誰よりも早く再建プランを提出した。燃えつきた町を復興するという壮大なプロジェクトの成功は、彼の尽力なくして語れない。
オックスフォード大学出身のレンは、赴任先のローマやパリで都市建築の重要性を感じ、イギリスに帰ってきた時もロンドンを清潔で近代的な都市にしたいと考えたいた。そんな中この大火が発生し「災い転じて福となす」の如く、これがチャンスだと直ぐに再建プランを提出し国王”チャールズ2世”も了承しました。
9月13日には国王”チャールズ2世”より以下の告知をおこないました。
「建築物はレンガまたは石造りであること」
「道路は道幅を広げ真っすぐにすること」
「建築には行政の許可を取得してから着手すること」
以上の条文より現在のロンドンの街並みになったのですが、道路拡張は地主により大反対にあい、道路拡張は行われませんでした。だらかロンドンは渋滞が多く、小道や袋小路の道路が多いんですね。
ロンドンの再建の任務は、「再建委員会」として知られるクリストファー・レンを含む6人の委員会に与えられました。 レンはセントポール大聖堂を含む51の新しい教会、そしてこのロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)を設計しました。大火より5年後の1671年に建設作業が開始されましたが、オランダとの戦争もあり、再建に必要な石がヨーロッパ大陸より手に入りにくい状態が続いた為、6年かけて建築され1677年に完成しました。
ロンドンはしばらくの間、木材建築と石膏建築の建物及びレンガ造りの建物のコントラストがありました。この状態は今のような建築様式の街並みになるには世代を要しましが、今日の石膏又はレンガ建築が見れる街並みへと変貌していきました。但しギルドホール、ヘンリー王子邸、聖バーソロミュー大王教会の入り口など、古い建物のいくつかは残っています。
もう一つロンドン大火の翌年、ロンドンで世界初となる火災保険が生まれました。
大火の教訓を踏まえて木造建築の方が石・レンガ造よりも保険料が高く設定されるなど現代の保険制度の礎となっています。
こう考えてみると、ロンドン大火は最悪な災害でしたが、こうして歴史を振り返ってみると今のロンドンがあるのはロンドン大火のおかげに感じてしまうんですよね。
そんな思いを巡らせながらこのロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)を眺めるのもちょっとワクワクしませんか。。。。。。
記念塔登頂
前記の通り、このロンドン大火記念塔(Monument to the Great Fire of London)には展望台(パブリックビューイングギャラリー)が設けられ内部階段により上ることが出来ます。
しかし事前に調べていたので今回は登る計画はありませんでした。この展望台は160フィート(50m)くらいの高さにありますからビルで言うと15階程度ですよね。それを螺旋階段で登るって結構勇気いりません?また階段は狭く、簡単にすれ違いも出来ない空間ですしね。
パブリックビューイングギャラリー(展望台)は巨大な金網(記念碑が建設されてから少なくとも100年くらいは設置されていませんでした)があり、人々が落下するのを防いでいます。なぜなら記念塔からの落下で8人が死亡しました(6人が自殺し、事故で2人)。
そんなこんなで、筆者はロンドン大火記念塔の前で歴史を振り返りながら思いをはせていましたが、体力に自信のある方は登頂してみてはいかがでしょか。
個人的には近所にあるスカイガーデンをお勧めします。
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